スカパラの谷中敦が「真面目さと正直さ」についてツイートしてるのを読んだら、
いろいろまとまらないイメージのようなものが浮かんだので、
まだ考えの途中のような状態をとりあえず書き留めておこうと思った。
真面目だなあと人に言ってみたり。人から言われたり。
真面目っぽくなさそうな人に実際会ってみたらすごく真面目だった、
ということもよくある。
でも、「真面目」は、
誰もが共有する「一般的な真面目の基準」と、
「真面目」の量も内容も種類も人それぞれ違う「個人的な真面目の基準」の、
二種類があるように思える。
或る人に会うまでは分からなかったけれど、
その「或る人」に会って話すと、
その人なりの「真面目さ」の基準が分かって、
「ああ実はこの人も真面目な人だったのだ」となる。
ルーズに生きたい人はルーズに生きることに関して真面目だったりする。
殺し屋は殺し屋なりの「真面目さ」があるのかも。
夢を実現したスポーツ選手のような人ほど、
その人が作ったルールに関して真面目なのかもしれない。
でも人生には、
それまで生きてきた「個人的な真面目の基準」が、
自分に合わなくなったことに気づいたり、
その真面目の基準に修正を加えなければならないことに気づいたり、
その真面目の基準が、
実は間違いかもしれないと気づいたりすることが、
稀にある。
そこに「正直」という基準で判断するべきことがあるのかも。
どれが、なにが、本当に正直か。
本当に「正直」にならなければ生きていられないこともある。
本当に正直でいることが、すごく勇気が必要な場合もある。
その「正直」が、それまでの「個人的な真面目の基準」と対立することだってある。
そしてさらにその正直は、
「一般的な真面目の基準」とさえ対立することさえある。
「一般的な真面目の基準」が本当に正しいか、
疑わしいことだってあるかもしれない。
自分にとっての「真面目」を信じて生きたり、
時々その「真面目」に、
嘘をついたりしながら生きたりするのが、
普段の生活なのだろうけれど、
真面目は、
その人にとってのその時の「真面目」であって、
その自分にとっての「真面目」を疑っておく視線は、
心の物凄く端っこのあたりに、
できれば持っておくべきなのかもなあと思ったりする。
どんなに「真面目」になりきっても、
「不真面目な部分」は残るし、
残って良いものだし、
残さなければならないのかもしれない。
「真面目な自分」を監視する「不真面目な自分」は、
ほんの少し居たほうが良いのかもしれない。
と、ここまで書いてきて、
あ、でもこの「一般的な真面目の基準」と、
「個人的な真面目の基準」って、
吉本隆明さんが言っていたことの焼き直しなのかもしれないなあと今思った。
吉本さんは、この「一般的な真面目の基準」と、
「個人的な真面目の基準」は、
対立し、逆立する場合があると言っていた。
そしてこの二つの真面目の基準の間に、
男女の関係、師匠と弟子の関係の間にあるような、
「対になるような形をした真面目の基準」の段階が存在していることも言ってた。
例えば、或る人が、
「あいつは不真面目な奴だ」と決めつけて、
その人を大人数で攻撃することや、
「あいつは真面目な奴だ」と決めつけることに対して、
なにか違和感を感じることの発端は、
この吉本さんの考え方に影響されていることが多いのかもしれないなあと、
いま思った。
その人個人にとっての「真面目の基準」、
「男女間に働くような対の形の真面目の基準」、
「村や街やある集団の中に働く真面目の基準」、
国や宗教みたいな「もっと大きな集団の真面目の基準」のように、
「真面目」には、大きさ、広がり、段階、があるのだろうな。